「行動デザイン」を学ぶ第22回:送り手が考える受け手の「情報処理プロセス」
人は情報をどう受け止めているのか? 送り手としての意識と受け手としての意識には、なぜ大きく違いが出てくるのだろうか? そこを踏まえながら、送り手と受け手それぞれの「情報処理プロセス」について整理してみよう。
送り手と受け手では、情報処理のあり方が違う
マーケティングの仕事に関わる立場にあるものとして、私たちは基本的に受け手の側に立ってコミュニケーションの作用効果を考える必要がある。しかし、私たちは、ついつい送り手側でコミュニケーションを分析しがちだ。
なぜなら、自分たちが売りたい商品・サービスはそれなりに良いもので、できればその良さを受け手が(私たちと同じくらい)よく理解し、まずは一度でいいから試してほしいと思っているからだ。その瞬間に送り手である私たちは、(受け手の)私たちのタイムラインの中に入り込んでくる他の企業のコミュニケーションにまったく興味を持たずにいたこと、あるいはスキップボタンを押して早く見たい動画にたどりつこうとしていた自分(受け手)の姿を忘れている。
これはいわゆる「図(対象)と地(背景)」といわれる現象で、それほど特別な出来事ではない。「図」を見ている時、つまり送り手として考えている時は、そうした普通の消費者としての自分自身の姿はまったく認識できない。逆に「地」を見ている時、つまり消費者として広告に接している時は、その広告の送り手の気持ちになって広告を見ようとする意識はすっかり消えてしまう。ここから言えることは、送り手としての私たちは、コミュニケーションの受け手が情報を「処理する」(この表現の是非については、後ほど問題提起する予定だが)プロセスに対して、客観的で公正な分析が非常に難しいということだ。
“なぜ関心を持ったのか”がわからない(忘れる)
直感的に、一消費者としてそのプロセスを自己分析すると、正直にいって、「なぜ、その広告に興味を持ったか」はよく覚えていない。例えば、広告には興味を持ったのに、資料請求や問い合わせ、あるいは申し込みといった、広告の先へと行く気にならなかった理由は「よくわからない」としか言いようがない(もしかしたら、好きなタレントが広告に出ていたのかもしれない)。あるいは、なぜ急にそのWebサイトをクリックし、さらにカートに商品を放り込んでしまったのか、しかもなぜ何カ月もそのカートの中身を放置して、結局、決済まで進まずに離脱してしまったのかも、正直わからない。
もし誰かにその理由を聞かれたら、値段が高かったとか、自分に合わないと思ったとか、適当に答えると思うが、それが本当の理由ではないことだけは何となくわかっている。なぜ、私たちはマーケティングに長年関わってきたのに、こと自分のこととなると、こんなにも自覚がないのだろうか。
今回は、送り手が考える受け手の「情報処理プロセス」について整理してみようと思う(私たちが家でぼーっとテレビを見ている時や、スーパーで買い物をしている時にしていることを「情報処理」などと呼ばれると、正直、とても違和感を覚えてしまうが)。
“モデル”に科学的な根拠なし?!
今日、送り手側で最も広く共有されている消費者の広告接触モデルは「AIDMA」プロセスだろう(ただし、これは企業では一般的だが、学術の世界、例えば消費者行動研究の世界では、AIDMAと似ているが少し異なるモデルが一般的のようだ。これについても、おいおい解説する)。
マーケティング関連の教材や、コラムでも「AIDMA」はよく紹介されている。ご存じの読者も多いと思うが、5つの英単語の頭文字の並びを日本では頻用しているが、米国ではむしろその前に提唱されたAIDAの方が使われているらしい。さらに「AIDMA」をアレンジした「AISAS」や「AISEAS」などのバリエーションもいろいろと提唱されている。
ここで筆者が強調したいのは、こうした“モデル”には特に科学的な証拠はなく、ただ「このように考えると、自分たちが主張するマーケティングのセオリーがわかりやすく説明できる」という提唱者のアイデアに過ぎない点だ。どのモデルを信じるのも自由だが、それが少なくとも「法則」などではまったくないことに注意してほしい。
それでも、このモデルに従ってマーケティングを設計することで、みなさんのビジネスがうまく回っているなら、それで何の問題もない。しかし、「どうも、うまく行かない」と悩んでいれば、一度このモデルから離れて、違う発想で受け手の真実を考えてみることをお勧めする。なぜなら、何回もいうが、「AIDMA」も「AISAS」も「法則」ではなく、あくまで送り手側の思考の整理論、フレームワークでしかないからだ。
新しいモデルが定着する or しない理由
ここで大きな問題は、社会で一度、あるモデルが「常識」として定着すると、それを覆すのは非常に困難になることだ。直感的にAIDMAに違和感を抱いても、企業・組織の先輩や上司、あるいは顧客企業がそのモデルに沿って話を振ってきたら、それを否定するのは身の危険につながる。そのように考える人が多くなると、モデルは社会的にますます強化されていくものなのだ。
そんな中で、「AISAS」モデルが一気に浸透したのは、タイミングがよかったのだろう。AIDMAモデルは、サミュエル・ホールというアメリカ人が1924年に書籍の中で提案したとされる。それからすでに1世紀近く経った頃に、このデジタル社会の急速な進展の中、検索サイトで情報を調べたり、SNSでシェアするといった新しい行動が発生すると、さすがに「1世紀前のモデルは、ちょっと賞味期限が切れているのでは?」とみんなが疑い始めたのだろう。
そういうタイミングで、人口に膾炙したAIDMAモデルを土台に、「S:サーチ(情報検索)」と「S:シェア(共有)」という2文字をD(デザイア=欲望)と、M(メモリー)の2文字(2ステップ)と“入れ替えた”モデルはとても使い勝手がよく、また「ググる」という新語が大流行した当時のWeb検索行動の実感にも合っていたのだろう。たしかに、平成以降の長いデフレトンネルに入った日本社会で「デザイア=欲望」という単語は、少しバブリーな、昭和な印象を与えていた感がある。
以前の連載(第1回と第3回)で、人はまったく新しい情報はスルーし、どこか見たことがあるような気がする「適度な不一致」に意識が集中しやすいという解説をしたが、AISASはAIDMAと2文字違うだけで、全体が5文字で韻も揃っている。新しい言葉が、古い言葉をテイクオーバーするためには、こうした「類似構造」が極めて重要である。その前後の時代にAIDMAに変わるものとして提唱された、先ほどの図の中のモデルの多くを今日あまり見かけない現状が、そのことを物語っている。
5文字より長すぎるもの、またAIDMAとの距離がありすぎるものは、仮にそれが「真実」だったとしても、社会では普及しにくいのだ。
<参考記事>
第1回:「行動デザイン」とは何か? / 第3回:「レーンチェンジ」を意識せよ!
次回は・・・
受け手の情報処理のメカニズムについて、もっと踏み込んでいく。受け手の心の中では、何が起きているのかを(真相はどこまでいっても仮説や推測でしかなくても)考えてみよう。
國田 圭作(くにた けいさく)
嘉悦大学経営経済学部教授、前・博報堂行動デザイン研究所所長、セカンドクリエーション代表。博報堂時代は大手自動車メーカーをはじめ、食品、飲料、化粧品、家電などのマーケティング、商品開発、流通開発などを多数手がける。
著書に『幸せの新しいものさし』(PHP研究所)、『「行動デザイン」の教科書』(すばる舎)。